中世フランスの歴史を英語でサクっと学ぼう

2021年10月24日

 

こんにちは。会計英語アカデミー運営者のわだけんです。

英語中級者になってくると、「外国人と軽く歴史や文化の話ができる」まで英語で教養を身につけたくなりますよね。

日本語であればスラスラ出てきても、英語だと何というかわからない用語(特に固有名詞)はたくさんあると思います。

本日の記事では、そんな方向けに「中世フランスの歴史」で重要な英語表現を紹介したいと思います。英語中級者からのレベルアップにお役立ていただけると幸いです。

メロヴィング朝

 

481年、クローヴィス(Clovis)がフランク諸部族を統一して、メロヴィング朝(Merovingian dynasty)を創始します。

「統一する」の"unite"、「創始する」の"found"、「王朝」を意味する"dynasty"は、よく歴史に出てくる英語表現です。

Clovis united all of the Frankish tribes under one ruler and founded the Merovingian dynasty.

クローヴィスは、フランク諸部族を1人の支配者の下に統合し、メロヴィング朝を創設した。

 

711年、イベリア半島にイスラームが侵入し、さらにピレネー山脈を越えてフランク王国に迫ってきますが、732年にトゥール・ポワティエ間の戦い(Battle of Tours)でイスラーム軍を撃退します。

「撃退する」には、「破る、負かす」という意味の"defeat"がよく使われます。

During the Battle of Tours the Franks defeated the Islamic army, which stopped the northward advance of Islam from the Iberian peninsula.

トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク族はイスラム軍を撃退し、イベリア半島からのイスラム教の北上を阻止した。

 

カロリング朝

 

トゥール・ポワティエ間の戦いによる勝利で名声を得たカール=マルテルの息子ピピン(小ピピン"Pepin the Short")は751年、フランク国王に就任しカロリング朝(Carolingian dynasty)を創始します。

Pepin the Short made the Carolingians the ruling dynasty of the Franks and the foremost power of Europe.

小ピピンは、カロリング家をフランク族の支配王朝、そしてヨーロッパの最有力者にした。

 

ローマ教皇の同意を得て即位したピピンは、756年に領地を寄進(ピピンの寄進"Donation of Pepin")を行うことでローマ教皇との結びつきを強くします。

Pepin the Short granted the pope rights over large territories in central Italy.

小ピピンは、ローマ教皇にイタリア中部の広大な領土の権利を与えた

 

小ピピンの息子であるカール大帝(Charlemagne, Charles the Great)は領土を広げ、現在の西ヨーロッパのほぼ全域を支配します。800年には、ローマ教皇からローマ帝国皇帝(Emperor of the Romans)に戴冠される「カールの戴冠」が起こります。

「戴冠する」には「王冠」を意味する"crown"が動詞の受け身のかたちで使われます。

In 800 Charlemagne was crowned "Emperor of the Romans" by Pope Leo III.

800年、カール大帝はローマ教皇レオ3世から「ローマ帝国皇帝」の帝冠を与えられた

 

その後、843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約(Treaty of Meerssen)によって、西ヨーロッパは東フランク王国、西フランク王国、中部フランク王国の三国に分裂(partition)します。東フランクはドイツ、西フランクはフランス、中フランクはイタリアの原型といわれていますね。

The Treaty of Meerssen was a partition treaty of the Carolingian Empire concluded in 870.

メルセン条約とは、870年に締結されたカロリング王朝の分割条約である。

 

カペー朝

 

987年、西フランク王国のカロリング家の血統が途絶えたため、パリ伯のユーグ=カペーが王位につきカペー朝が成立します。

カペー朝の王フィリップ2世は、イギリス王リチャード1世とともに第3回十字軍(Third Crusade)に参加します。後に、リチャード1世の弟ジョン王から、フランス国内のイギリス領を奪いフランスのほぼ全土を支配したため、フィリップ2世は「尊厳王」の異名を持っています。

「(領土を)奪う、没収する」は"forfeit"、「占領する」は"occupy"と英語で表現します。"forfeit"の読みは「フォーフェイト」ではなく「フォーフィット」なので注意しましょう。

After the Third Crusade Philip II declared John's holdings in France forfeit, occupying Normandy and all English lands north of the Loire River.

第3回十字軍遠征の後、フィリップ2世はフランスにあるジョンの領地の没収を宣言し、ノルマンディーとロワール川以北のイングランド領を占領した。

 

フィリップ4世(Philip IV of France)の時代になると、戦争の資金調達のため教会に課税しようとしてローマ教皇ボニファティウス8世(Pope Boniface VIII)と対立します。フィリップ4世は1302年にフランス初の三部会を開催し、課税を承認させることに成功します。

「対立する」は"enter into conflict with~"、「課税する」は"impose taxes on~"という英語表現が無難です。

Pope Boniface VIII entered into conflict with Philip IV of France when Philip IV attempted to impose taxes on the clergy.

教皇ボニファティウス8世は、フランスのフィリップ4世が聖職者に課税しようとしたことで、フィリップ4世と対立した。

 

1303年、アナーニ事件(Outrage of Anagni)でフィリップ4世と対立していたローマ教皇のボニファティウス8世が憤死します。

「憤死」の英語を検索すると、"die of resentment" "die of indignation"という表現が出てきますが、ボニファティウス8世の憤死には、「屈辱、無念、悔しさ」という意味の"chagrin"を使い"die of chagrin"と表現します。

After the Outrage of Anagni, Pope Boniface VIII died of a "profound chagrin".

アナーニ事件の後、ボニファティウス8世は憤死した。

 

1309年、フランス人のローマ教皇クレメンス5世(Pope Clement V)はフィリップ4世からの圧力を受け、教皇庁(Papacy)を南フランスのアヴィニヨンに移し、約70年に及ぶ「教皇のバビロン捕囚(Avignon Papacy/Babylonian Captivity)」が始まります。

「場所を~に移す」といいたいときは、シンプルに「動かす」という意味の"move"を使って構いません。

Pope Clement V moved the Papacy from Rome to Avignon, which is called the "Babylonian Captivity".

教皇クレメンス5世は、教皇庁をローマからアヴィニョンに移した。これを「バビロン捕囚」と呼ぶ。

 

ヴァロワ朝

 

フィリップ4世以降は短命な国王が続きシャルル4世を最後に、カペー朝は1328年に断絶します。フランス三部会の推薦により、シャルル4世の従兄弟のヴァロワ家フィリップ6世が即位し、ヴァロワ朝Valois Dynasty)が成立します。しかし、これに対してイングランドのエドワード3世が王位継承権を主張し百年戦争(Hundred Years' War)が勃発します。この戦争はシャルル7世の時代まで続きます。

「フランスの王位継承権を主張する」は"claim the legitimate succession to the French throne"と英訳することができます。個人的には、「継承」を"succession"と訳すのが難しくパッと出てこないと感じます。

The English royal House of Plantagenet and the French royal House of Valois came into conflict over English territorial possessions in France and the legitimate succession to the French throne.

イギリスのプランタジネット家とフランスのヴァロワ家は、フランスにおけるイギリスの領土とフランスの王位継承権をめぐって対立した。

 

シャルル8世(Charles VIII)が即位すると、1494年、ナポリ王国の王位継承権を主張してイタリアに侵入しイタリア戦争(Italian War)が始まりますが、最終的にはシャルル8世は敗北してイタリア撤退を余儀なくされます。

「侵入する」「撤退する」という表現には、それぞれ"enter"、"withdraw"が使えます。便利な表現なので覚えておきましょう。

French troops under Charles VIII entered Florence in 1494 and Charles VIII was crowned King of Naples in 1495 but eventually withdrew from Italy.

1494年、シャルル8世率いるフランス軍がフィレンツェに侵入し、1495年にはシャルル8世はナポリ王に即位したが、最終的にはイタリアから撤退することになった。

 

ヴァロワ朝第9代の国王フランソワ1世(Francis I)は、即位直後の1515年にイタリア戦争の再開させ、神聖ローマ皇帝カール5世(Charles V, Holy Roman Emperor)と激しく争います。また、レオナルド=ダ=ヴィンチのパトロンになるなど文芸を保護したため、フランス・ルネサンスの父と呼ばれるようになります。

In 1515 Francis I continued the Italian Wars and fought fiercely with Charles V.

フランソワ1世は1515年にイタリア戦争の再開させ、カール5世と激しく争った。

 

16世紀後半になるとカトリックとカルヴァン派(Huguenots)の間でユグノー戦争(French Wars of Religion)が勃発します。1572年には、旧教徒カトリック勢力による新教徒カルヴァン派の虐殺「サンバルテルミの虐殺(St. Bartholomew's Day massacre)」が起こります。ユグノー戦争は、1598年にアンリ4世が「ナントの王令(Edict of Nantes)」を発して新教徒の信仰を認めるまで続きます。

戦争が「勃発する」は"break out"という英熟語を使って表現します。

In the second half of the 16th century, the French Wars of Religion broke out between Catholics and Huguenots (Calvinist Protestants) in the Kingdom of France.

16世紀後半、フランス王国では、カトリックとユグノー(カルヴァン派のプロテスタント)の間で「ユグノー戦争」が勃発した。

 

最後に

いかがでしたか?

中世のフランスの歴史を英語で学習するうえで少しでも参考になったら嬉しいです。