アート

《落穂拾い|ミレー》実物写真で美術初心者にやさしく解説!【写実主義】ジャン=フランソワ・ミレー

2021年10月6日

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こんにちは。わだけんです。

今回は19世紀のフランス画家で写実主義を代表する「ミレー」の傑作《落穂拾い》について、美術初心者にも分かりやすく解説します!

作品紹介に加えて、ミレーの生い立ちや《落穂拾い》が描かれた時代背景も丁寧に説明します。

 

作品紹介

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作品概要

  • 作品:落穂拾い
  • 完成:1857年【写実主義】
  • 画家:ジャン=フランソワ・ミレー
  • 場所:フランス・オルセー美術館
  • 技法:キャンバスに油絵
  • 寸法:縦84cm x 横110cm
  • 訪問:2021年9月23日

農民画家として有名なミレーの代表作《落穂拾い》は、1857年にミレーが43歳で発表した作品です。

1848年の2月革命、そして1849年のパリ暴動とコレラ流行を機に、ミレーは創作活動の場所をパリ郊外南部のバルビゾン村に移しており、バルビゾン村の近くにあったシャイイ農場の風景をモデルに《落穂拾い》を描きました。

バルビゾン村は冬に雪が積もるため、ミレー以外の画家は冬になるとパリに戻りましたが、北国ノルマンディー生まれのミレーは寒さを好み、普仏戦争で故郷に疎開した1年を除いて、他界する1975年までバルビゾン村に住み続けました。

豆知識

当時は汽車と馬車を使って、パリ=バルビゾン村は1日で往復することが可能でした。

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作品の解説に戻ります。《落穂拾い》は貧しい農民(三人の女性)が落穂拾いをする情景を描いています。

落穂拾いとは、穀物の収穫後に田畑に散らばる穂を拾い集めることです。

昔からヨーロッパの刈り入れ作業では、土地を持たない貧しい農民への福祉として、収穫物の1割を畑に残す習慣がありました。

これは、旧約聖書「レビ記」23章22節に書かれている規定(法律)に依るものです。

あなた方の地の穀物を刈り入れるときは、その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。

しかし、女性たちの足元には穂が全然残っておらず、真っ黒に日焼けした手で穂をかき集めています。

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また、右端の女性の左肩は縫い目が破けていて、普段着を裁縫する経済的余裕すら無いことを暗示しています。

女性の右後方には、馬に跨り、右手を前に出して指示をしている男性が小さく描かれています。

男性はスチュワードと呼ばれる現場監督責任者(領地内で行われる農作業を監督する責任者)だと考えられています。

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また、絵画の左後方に目を向けると、収穫された穂が馬車の荷台にぎっしり積まれています。

必死に働く女性たちには全く還元されず、厳しい生活環境が強調されています。

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バビルゾン村に移住して農民の姿を見続けて10年、ミレーは「屈む」「拾う」「立ち上がる」という過酷な農作業を三人の女性で表現し、農民画の傑作《落穂拾い》を完成させました。

ミレーは貧しさを前面に表現しながらも、収穫人たちに威厳を持たせることで、悲惨さを感じさせない象徴的な価値を与えています。

ミレーってどんな画家?

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ミレーは写実主義と呼ばれる画家であり、1840年(26歳)から35年間、フランスのパリとパリ郊外南部のバルビゾン村で活躍しました。

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ミレーはシェルブールの格式ある農家に8人兄弟の長男として生まれます。

実家の畑仕事の休憩中にミレーが写生したデッサンを見た父親が「この子には才能がある」と直感し、農家の後継息子でありながら、ノルマンディー地方のシェルブールという街で19歳から絵を学び始め、画家としてのキャリアをスタートさせます。

画家としての腕を着実に上げていき、23歳のときに市から奨学金を得て、パリの国立美術学校でポール・ドラロッシュの教室に入ります。

26歳でサロン展に初入選したあと、肖像画家として身を立てるため、故郷シェルブールに戻り創作活動に取り組みます。

豆知識

農民画家として著名なミレーですが、画家としてのキャリアは肖像画家からスタートしています。

翌年の1841年、27歳でポーリーヌと結婚し、仕事もプライベートも順風満帆に進むかと思われました。

しかし、受注制作していた元シェルブール市長の肖像が似ていないと非難されて受け取りを拒否されるなど、キャリア序盤は苦労を重ねます。

絵が売れなければ生活が成り立たちませんので、ミレーは肖像画に固執せず、牧歌的神話画や裸体画を描いて生活費を稼いでいました。

では、なぜ農民画ではなく牧歌的神話画や裸体画を描いたのでしょうか?言い換えると、1840年代に農民画は需要がなかったのでしょうか?

この疑問に対して、時代背景から考えていきましょう。

ミレーが《落穂拾い》を描いた時代背景は?

Millet-The-Gleaners-When

 

農家に生まれたミレーが農民画の創作に傾倒することは直感的に納得・理解できます。

しかし、なぜ30代中盤までは肖像画や牧歌的神話画を描いていたのでしょうか?その理由は西洋絵画の格付けにあります。

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西洋絵画は歴史画(神話画や宗教画)を最上位(最も権威があり価値が高い)に位置付け、次いで肖像画、風俗画、風景画、静物画という格付けが明確でした。

格付けが高い絵画ほど買い手を見つけやすいため、経済的余裕のない若手画家は歴史画や肖像画を描いてお金を稼ぎ、実績を積み上げることが必要だったのです。

豆知識

北国ノルマンディーでは才能ある若手画家だったミレーですが、パリに出てくれば大勢の若手画家のひとりに過ぎず、大衆受けする絵を描く以外にキャリアを積み上げる方法はありませんでした。

では、西洋絵画の格付けはどのように決まったのでしょうか?

実は、格付けには太陽王ルイ14世の存在・意向が大きく影響しています。

Millet-History

 

ブルボン朝の絶頂期を築いたルイ14世は1661年から親政をスタートさせます。

2年後の1663年、ルイ14世はフランス王立絵画彫刻アカデミーを王室保護下に置き、王室の権威を高める道具として芸術を利用することを考えたのです。

絶対王政のための美術が流行った時代を「古典主義の時代」と呼びます(ルネサンス美術を模範にしていました)。

豆知識

神話画や宗教画は神や王の偉大さを示す役割を担っているため、ルイ14世の親政を権威づけするのに最適でした。

そして、王侯貴族や聖職者などの「個人」を権威づける手段として肖像画が有効であることから、肖像画は歴史画に次ぐ格付けを与えられたのです。

1715年にルイ14世が死去してから、古典主義の反動で可愛い装飾的な表現が特徴の「ロココ美術」が新しく発展し、18世紀中旬に古典主義への回帰を主張する「新古典主義の台頭」があり、19世紀前半には画家の感情や感性を重視し、新古典主義の題材にある「美」ではなく現実世界の「醜」を表現する「ロマン主義」が出てきます。

この期間、ルイ14世が確立した西洋絵画の格付けは変わることはありませんでしたが、1848年のフランス革命を機に「写実主義」が到来します。

現実世界に着目するのはロマン主義と同じですが、歴史的大事件や王侯貴族・聖職者を題材に選ぶのではなく、写実主義は一般市民や労働者・農民の日常の一コマをキャンバスに描きました。

フランス2月革命で共和制(第二次)が成立して民主化が推進され、絵画の中心が一般市民や労働者・農民に移りました。

幸運にも、当時ルーヴル美術館の事務局長で親友だったサンスィエが、ミレーのために政府の発注を取ってくれたり、バビルゾンで土地を買ってミレーに家を提供するなど(家賃は現金ではなく絵を受け取った)、ミレーを経済的に援助してくれました。

親友のサポートもあり、水を得た魚のようにミレーは農民画を次々と描き上げていったのです。

最後に

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ミレーの代表作《落穂拾い》を解説してきましたが「絵画の歴史的背景を知ることで楽しみ方が広がった」「画家の生い立ちを知ることで共感・感情移入できた」など、少しでもお役に立てたなら幸いです。

参考文献

参考URL

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